カテゴリー | 教育 |
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名前 | 小黒 道子 |
所属 | 東京医療保健大学大学院 千葉看護学研究科 |
看護職を目指す学生さんたちへの基礎教育、および現役の看護職が在籍する大学院で継続教育に携わっています。大学では母性看護学領域の責任者をしていますが、学部では、専門の母性看護学に関する科目だけではなく、看護学概論、国際看護論、生涯発達ケア論、クリティカル・シンキングⅢ、終生期看護援助論、チーム活動論、協働実践演習、看護研究等々、多岐に渡って学生さんと学んでいます。
専門領域は国際母子保健、助産学・母性看護学です。そのため、他の教育機関(上智大学助産学専攻科、帝京大学、千葉県立医療保健大学、神奈川県立衛生看護専門学校助産師学科)の国際助産学や国際看護学の講義も担当しています。
・国立マンダレー看護大学との共同研究、交流、セミナー開催
・チン州で実施予定の母子保健プロジェクトへの専門家としての派遣(コロナとクーデターで延期中)
・シャン州チャイトンタウンシップでの母子支援
・日本助産学会 国際員会委員、専任査読委員
・日本助産師会 教育委員会委員長、助産実践能力推進委員会委員長
・日本看護科学学会 専任査読委員
・厚生労働省 保健師助産師看護師国家試験委員会 幹事委員
助産師を目指したきっかけは?
自分がどういう仕事に向いているか、適正を判断するのは、高校生の段階では難しいことだと思います。けれど、その当時なんとなく自分で思っていたのは知っている職業の中でも自分は看護師に向いているかな、とぼんやりと思っていました。身内にそういう職業の人がいるわけではなかったので、それは本当にテレビで見るイメージとか人から聞くイメージとか読んだもののイメージだけでただ判断していただけでした。親は、私が看護職になることは決して賛成していませんでしたが、同じように看護師を目指していた同級生が助産師っていう仕事があるらしいよと教えてくれ、そんな仕事があるんだと関心を持ったのが最初です。でも助産師の仕事なんてそもそもやっぱり全く分からなかったです。子供を産むっていうところにかかわる仕事だなっていうくらいですね。でもなんか良いなと思ったんです。いい感触をもったんですね、聞いただけでも。結局、看護大学に入って色々学んでみて色んな領域に実習に行ったらやっぱり一番合っているなと思ったのが母性看護の実習でした。学びながら助産師になろうと固まっていったというような流れです。
国際活動をされるきっかけは?
助産師の資格を取ってから初めて海外で働いたのは、アフリカのジブティという国です。それは、ある団体が行っていた国際看護研修の一環だったので報酬を得ての仕事ではありませんでした。主に現地の助産師さんたちと産科病院で出産を介助したり、異文化の中で色々なコンフリクトや葛藤もある中で仕事をしました。たくさん赤ちゃんも死ぬし、お母さんも死ぬし、そんな中で泣きながら働いていました。なかでも16歳のソマリア人妊婦の出産に関わった経験は、今でも鮮明に思い出すことができます。当時のジブティには女性性器切除の慣習があり、その女性も受けていました。大陰唇と小陰唇と陰核がない外性器は尿道口の小さな穴しか見当たらず、膣口も指一本がやっと入る程度に縫合されていました。その女性は分娩の進行状況を評価する内診を恐れて分娩台で大暴れをするため、他の助産師たちとその身体を押さえ、声掛けをしながら分娩に関わり、無事に男の子が生まれました。産後は母乳育児が上手くいかず、その女性がご飯を食べる時間もなく困っていた時に、赤ちゃんを私が預かりあやしたことがありました。すると、退院の時に私を自宅に招待したいと言って、土の壁でできた電気も水もない実家に案内してくれました。その後も病院まで私に会いに来たり、私が帰国後も子どもの大きくなった写真を派遣団体のスタッフに渡し、日本にいる私に届けるよう依頼したりしてくれました。アフリカはその時戻りたいなと思っていたのですが、結局ご縁がありませんでした。
その後日本に帰国後すぐ病院で働き出し、総合病院で5年ちょっと働いた後に大学院に進学しました。大学院修士課程を2年間で修了後、自分のキャリアをこれからどうしようと考えました。当初は日本の病院に戻って働こうと思っていましたが、いくつか病院見学に回った段階で見学に対応してくださった看護管理者の方から、修士を出てくるなら管理職になって欲しいと言われたのです。自分の中では病院にもう一回戻って働いた時に管理職になることは、全然イメージもつかないし、何よりあまり自分の望みではありませんでした。どうしようかなと思ったところで大学時代の恩師が日本のあるNGOが海外で働ける助産師を探しているので連絡を取ってみたらと言ってくださり、そのNGOの方とお会いすることにしました。NGOの方とお話をした時に、暑い国と寒い国どっちがお好きですか、ご自分にあっていると思いますかと聞かれて、どちらかというと暑い国かもしれませんとお答えしました。するとしばらくしてそのNGOからミャンマーに行ってみませんかと連絡があり、行ってみようと思ったのが、海外で助産師として報酬を得て働くことの始まりでした。それまでは、ミャンマーがどこにあるのかもよく分かりませんでした。
ミャンマーでの活動は2003年から始まりました。その時は農村での母子保健プロジェクトに母子保健専門家として関わっていたので、その地域で働く現地の助産師さんたちと様々な活動をしました。現地の母子保健が向上するように、技術を一緒に勉強したりだとか、あるいはワークショップをやって安全にお産するにはどうしたらいいか考えるとか、安全に分娩をするための助産キットを配布し、その使い方を学んだりもしました。女性保健ボランティアの育成にも携わりました。とはいえインフラが整っていない地域でもあり、井戸を掘るとか、栄養状態のよくない子どもを育てるお母さんと安価で栄養価の高い食事を一緒に作るといった活動にも関わりました。助産ケア以前の、生きていくために不可欠な水や栄養に関する支援もそのプロジェクトの活動に含まれていたので、コミュニティでの基本的な保健衛生状態の向上にも関わりました。
その後また違う団体のプロジェクトに専門家で派遣されたり、研究費を獲得して現地で調査研究を行うことを繰り返しながらあしかけ19年以上、ミャンマーと往復する生活がずっと続いている状況です、その間に博士課程に進学したり看護系大学の教員になったりはしていますが、ミャンマーの仕事だけずっと途切れずに継続している、ライフワークのようになっていると思います。
ご苦労されたことは?
いろいろありますが、今となってはどれもよい思い出です。環境因子としては、乾期に村まで行くと土ぼこりで髪が白髪のようになるのですが、水がなくて土ぼこりまみれのまま3日以上水浴びできないとか、電気のない地域で気温が夜中も30度以上で風がそよとも吹かず、暑すぎて眠れずに悶々とするとか、やっと寝たと思ったらネズミに足の指を噛まれたりとか。サソリやコブラも生息する地域で、同僚には被害が出ていましたが、私は幸いにもそれらに遭遇はしても噛まれたり刺されたりすることはありませんでした。でも、危険生物がいるからといって、行かないという選択はしないわけです。また仕事上の人間関係も、現地のスタッフも含めいろいろありましたが、それはどこで働いていても当然あることで、苦労と考えたことはありませんでした。
女性の方たちへのインタビュー調査である農村に行った時のことです。調査対象だった10代後半の女性から言われた言葉が心に残っています。
彼女は、幼少時からの栄養状態のせいか身体は少女のように小さく、腕には乳児を抱きかかえながら調査に協力してくれました。受け答えは明確で、聡明さが滲んでいましたが、高等教育を受ける機会がありませんでした。その彼女に、去り際にぽつりと言われました。
「生まれ変わったらあなたになりたい」
私は、何も言葉を返せませんでした。
でも忘れられないメッセージとして私のなかでは残っています。
私はたまたま日本で生まれ、教育を受ける機会がありましたが、それは決して自分の能力が高いわけではないと考えています。自分の力ではどうしようもない、生きる環境を選ぶことができない中で生きている人はたくさんいること。だからこそそのような人と出会えた時に自分はどうするのかを考えた結果、できることをしていきたいと思い至った経験となっています。
今後もミャンマーとの関係性は続いていくのかなと思っています。訪れるたびに自分の知らなかったことや新たな気づきを得ることができる魅力が、私にとってはミャンマーにあるのだと思います。どういう形で関わり続けるかはわかりませんが、自分ができることをやっていきたいな、とは感じています。
自分が通常所属しているものとは異なるコミュニティに関わってみると世界が広がりますよね。自分が考えてもいなかったことや、あるいは同じことを考えている人がこんなところにもいるのだと知る機会を増やすのは、人としての幅も広がるだろうし、ひいては助産師としての色んなスキルの向上にもつながってくると思います。もちろん、関わった人から発せられるものの何をシグナル、あるいはノイズと捉えるかはその人の感性にもよるとは思います。しかし、まずは一歩踏み出してみないと分からないので、できない理由を考えるより先に行動を起こしてみませんか、ということが私の言えることかなと思います。